1991年10月27日
ザ・シンフォニーホール
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ラファエル・クーベリーク指揮チェコ・フィルハーモニー
スメタナ;我が祖国
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| チェリビダッケ&ミュンヘンフィルのコンサートが精緻極まる演奏ならば、このクーベリークとチェコ・フィルとの「我が祖国」はまさに精魂極まる演奏と言えますでしょう。ご存じの通りクーベリークは若くしてチェコ・フィルのシェフに戦後就任しましたが、共産化したチェコに反対して祖国を離れ、長く西側で活動していました。祖国を離れていても、その想いは断ち切れることはなく、チェコとの国境でチェコ側で植えている木の枝が国境を越えていたのを見たとき、クーベリークはその枝を切って祖国への想いをかみしめていたそうです。生前2度と祖国の土を踏むことはないと思っていたクーベリーク、ゴルバチョフ政権時代に相次いで東側の国々が民主化され、チェコも1989年のビロード革命によって、共産党支配から脱却されました。すでに1985年に引退を表明していたクーベリークでしたが、彼の青年時代に共に音楽を築き上げていたチェコ・フィルからチェコ国民が最も大切にしているプラハの春オープニングに招聘されました。例年オープニングを飾るのはスメタナの「我が祖国」。ナチスの悪夢から解放された戦後第1回目のプラハの春で「我が祖国」を振ったのもクーベリーク&チェコ・フィル。チェコの歴史の瞬間に常にクーベリークがいたといっても過言ではないでしょう。このコンビでの「我が祖国」はTVなどで広く知られていますが、日本に住んでいる音楽ファンの誰もがこう思った事でしょう、「まさか来日はすまい」と。ところが大阪と東京の2公演に限ってクーベリークが「我が祖国」を指揮すると聴いた瞬間の感動はとてつもないものでした。おそらくカラヤンにもベームにもチェリビダッケにもクライバーにもなしえないコンビが来日するのですから。クーベリークは、体調を整えることとリハーサルを入念にするために、チェコフィル初日(当大阪公演)の随分前から来日していました。招聘元のジャパン・アーツからスケジュールなど教えてもらい、リハーサル見学は叶わなかったものの、リハーサル直後のクーベリークとお会いする事が出来ました。相当気合いを入れてリハーサルされていたのか(午前午後で計5時間?)、"tired, tired!"とおっしゃっていましたが、サインや写真撮影(上のがそれ)にも気軽に応じていただけました。予めホテルに差し入れをしていたケーキがたいそうお気に入りだったとか(通訳談)。さてコンサートについてですが、観客席からとてつもない緊張感が漲っていたのは言うまでもありません。クーベリークが舞台にあがると観客は総立ち。全く拍手がおさまりそうになく、いつまでたっても演奏が始まらない状態でした。ようやく観客が席につき恐ろしいほどの静寂の後、クーベリークが静かに指揮棒を振り下ろすと、あの有名なハープの音色。クーベリークは腕組みをし、何か遠くを見つめるようなしぐさ。苦難につぐ苦難をスメタナもチェコもチェコ・フィルもそしてクーベリークも経験していたからこそ、この得も言われぬ優しく厳しく鳴り響いていたのでしょう。もうその瞬間にもうぼくは涙がこぼれてきました。目を拭っている方があちらこちらでいました。プラハの春ではあまりの緊張感で気負い過ぎてチェコ・フィルも少々ガチガチ気味でしたが、大阪公演では良い意味でリラックスして演奏に臨んでいたように感じました。夢のようでそして感動の渦に巻き込まれながら我が祖国の演奏は終わりました。観客はもちろんまた総立ち。今まで聴いたことのないようなものすごい拍手。観客の誰もがスメタナに、作品に、オーケストラに、そして何よりもクーベリークに惜しみない拍手が寄せられました。オケのメンバーもすべて袖に戻ったものの、拍手は鳴りやみません。観客の想いはひとつ、「ありがとう、クーベリーク」。ようやくクーベリークが舞台に現れたとき、さらに大きな拍手が。客席すべてに丁寧に会釈をされ袖に戻った瞬間にピタリッと拍手が止みました。誰もが彼の高齢を思い遣り、いたずらに舞台に呼び出すことを避けたためでしょう(東京公演では執拗に舞台に呼び出したそうな)。観客、演奏家がひとつになって壮大な感動を醸し出した、そんな演奏会でした。 |
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